この記事では、足利氏の家系図を単なる将軍の一覧としてではなく、室町時代の複雑な「権力構造図」として読み解きます。幕府成立から全盛期、そして権威失墜・戦国時代への移行までの権力の変遷を、足利一族の家系図を通じて解説します。
室町幕府の歴史は、足利一族の血筋をめぐる二つの大きな対立軸によって動かされました。一つは、京都の将軍家における後継者争い、すなわち「垂直的な権力継承」の問題です。もう一つは、京都の将軍家と関東を統治する公方家との間の「水平的な権力分裂」です。この二つの対立軸は、室町幕府が抱えた構造的な矛盾そのものであり、その盛衰を理解する鍵となります。
家系図から見る室町幕府の歴代将軍
1 幕府の創始と矛盾:初代将軍 足利尊氏
1.1 幕府創設の経緯
室町幕府の創始者である足利尊氏は、清和源氏の流れをくむ名門の出身です。当初、尊氏は後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧する幕府軍の将でしたが、後に天皇側に転じ、京都の六波羅探題を滅ぼします。その功績により「尊氏」と名を賜りました。
1.2 北朝樹立と二頭政治
しかし尊氏は建武政権に反旗を翻し、光明天皇を擁立して北朝を樹立。これにより、日本は50年以上にわたる南北朝の対立時代に突入します。1338年、尊氏は征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。統治は弟・直義との「二頭政治」に支えられましたが、この分担は後の内紛(観応の擾乱)を招き、幕府創設期から不安定要因を抱えることになりました。
2 権力の頂点と文化の融合:三代将軍 足利義満
2.1 幕府最盛期の功績
室町幕府の最盛期は三代将軍・足利義満の時代です。義満は政治的手腕を発揮し、幕府の権力を絶対的なものにしました。
主な功績は二つです。
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南北朝合一(1392年):50年以上続いた内乱を終結させ、名実ともに日本の統一支配者としての地位を確立。
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日明貿易の開始:明との国交を再開し、「日本国王」として冊封を受け、国内の権威強化に活用。
また、京都北山に「北山殿」(現・金閣寺)を造営し、公家文化と武家文化が融合した「北山文化」を花開かせました。将軍職を子の義持に譲った後も実権を握り続けましたが、権力は個人のカリスマ性に依存しており、制度的基盤の強化には至りませんでした。
3 権威の失墜と乱世の序幕:八代将軍 足利義政
3.1 幼少継承と応仁の乱
義満が築いた権力は、八代将軍・足利義政の時代に衰退します。義政は幼くして将軍職を継ぎ、守護大名の不満を抑える力はありませんでした。その後、将軍家の後継者問題が引き金となり、応仁の乱(1467年)が勃発。京都は焦土となり、幕府の権威は不可逆的に瓦解しました。
3.2 文化的功績
一方で義政は文化の庇護者としての一面を持ち、東山に慈照寺(銀閣寺)を造営。「東山文化」を代表するわび・さびの美意識を確立しました。
4 戦国時代の将軍:義輝と義昭
4.1 十三代将軍 足利義輝
武勇に優れ、大名間の調停に尽力。松永久秀らの襲撃で非業の死(永禄の変)。
4.2 十五代将軍 足利義昭
信長を頼って上洛、残存する象徴的権威を活用し反信長勢力を結集。しかし最終的に信長と対立し京都から追放、室町幕府は事実上滅亡。
5 室町幕府の主要将軍まとめ
| 将軍 | 在職期間 | 主な出来事・政策 | 歴史的地位 |
|---|---|---|---|
| 初代 足利尊氏 | 1338-1358 | 北朝擁立、建武式目制定、幕府創設 | 幕府創始者、成立過程に内乱の種を抱える |
| 三代 足利義満 | 1368-1394 | 南北朝合一、日明貿易、金閣建立 | 幕府最盛期を築いた権力者 |
| 八代 足利義政 | 1443-1473 | 応仁の乱、銀閣建立 | 幕府権威失墜の時代の将軍 |
| 十三代 足利義輝 | 1547-1565 | 大名間調停、永禄の変で死去 | 「剣豪将軍」、失われた権威回復に尽力 |
| 十五代 足利義昭 | 1568-1573 | 信長包囲網の画策、追放 | 室町幕府最後の将軍 |
関東公方家と権力分裂

1 鎌倉公方の設置
1.1 公方家設置の背景
室町幕府の権力構造を理解する上で重要なのが、京都将軍家とは別に関東を統治する「鎌倉公方」です。初代将軍・尊氏が四男・基氏を初代鎌倉公方として関東に派遣したことに始まります。
1.2 京都家との区別
興味深いことに、京都の将軍家が「義」の字を通字としたのに対し、公方家は「氏」の字を通字としました。これは両家が初期から明確に区別されていたことを示しています。
2 古河公方の誕生
鎌倉公方は次第に自立性を強め、京都幕府と対立。享徳の乱などを経て、本拠地を下総国・古河に移し、「古河公方」と称されます。関東は半独立状態となり、足利氏内部の「水平的権力分裂」が決定的となりました。
3 戦国大名の権力闘争と公方家
3.1 後北条氏の利用
婚姻関係を通じ権威を利用し、関東支配の正当性を確保。
3.2 里見氏の対応
分家の「小弓公方」を支持し、後北条氏に対抗。
足利氏の家系図は、単なる血筋の証明ではなく、地方権力闘争における「正統性の源泉」として活用されました。