紀元前221年、後に始皇帝と呼ばれる嬴政(えいせい)は長年続いた戦乱の時代を終わらせ、中国で初めて統一王朝を築きました。この記事では、始皇帝の家系、秦の国の歴代の王の系図、そして彼の姓「嬴」にまつわる起源について整理します。
1.始皇帝の家系図
嬴政の生涯には、家族をめぐる複雑な人間関係が影響したとされます。その背景を家系図から読み解きます。
1.1. 両親と出生をめぐる説
父は秦の荘襄王(嬴異人)、母は趙姫です。
嬴異人は若い頃、趙国で人質として暮らしていました。そこで大商人の呂不韋の後ろ盾を得て帰国の道が開かれます。趙姫はもともと呂不韋の側室でしたが、嬴異人に嫁ぎ嬴政を出産しました。後世には「嬴政は呂不韋の子ではないか」という説が流れましたが、史書では嬴異人と同居後に妊娠したと記されており、直接の根拠はありません。
1.2. 兄弟と嫪毐事件
異母兄として成蟜(せいきょう)がいます。
荘襄王の死後、趙姫は偽の宦官・嫪毐(ろうあい)と関係を持ち、二人の子をもうけました。嫪毐は後に反乱を企て、嬴政によって処刑され、趙姫の子も誅殺されました。この事件は、母方勢力を排除し、政権基盤を固める契機になったとされています。
1.3. 妻と子供
始皇帝の皇后に関する記録はほとんど残っていません。
記録に見える息子には、扶蘇(ふそ)、将閭(しょうりょ)、高(こう)、胡亥(こがい)などがいます。後継者は本来扶蘇と考えられていましたが、始皇帝の死後、宦官・趙高と李斯の策動により、胡亥が二世皇帝として即位することになりました。これが秦崩壊の一因になったとされます。
1.4. 子嬰との関係
子嬰は秦の最後の王として知られていますが、その出自については長く議論が続いてきました。現在では、古い史料を比較した学者たちのあいだで「子嬰は始皇帝の兄弟にあたる世代の人物だった」という見方が有力になっています。その理由をわかりやすくまとめます。
1. 宗室粛清の状況から見える立場
二世皇帝の時代、趙高の進言によって皇族の多くが処刑されました。もし子嬰が始皇帝の孫のような若い世代であれば、粛清の対象になりやすく、生き残る可能性は低かったはずです。一方で、年齢の高い兄弟世代であれば脅威と見なされにくく、命が助かる可能性がありました。
2. 趙高にとって扱いやすい人物だった
二世皇帝が亡くなった後、趙高は混乱を抑えるために「大衆が受け入れやすく、政治的な後ろ盾のない人物」を必要としていました。若く力のある孫世代よりも、権勢から遠い叔父世代の子嬰の方が、操りやすい存在でした。
3. 子どもの年齢から見た推定
史料には、子嬰が即位前に「二人の息子とともに趙高を討とうとした」と書かれています。もし彼が始皇帝の孫にあたる年齢なら、息子たちはまだ幼く、このような行動は現実的ではありません。子どもが暗殺計画に加われる年齢だったことは、子嬰自身が年長の世代だったことを示しています。
2.秦国の王の系図
秦の統一は嬴政一人の能力だけで達成されたものではなく、歴代の制度改革と国力増強の積み重ねによるものです。
2.1. 起源
秦の始祖とされる非子(ひし)は、周王に馬の飼育技術を認められ領地を得ました。秦の遠い祖として、夏王朝時代の伯夷(はくい)が挙げられる伝承もあります。当初の秦は西方の小国でした。
2.2. 商鞅の改革
紀元前4世紀、孝公のもとで商鞅(しょうおう)が大規模改革を実施しました。軍功による爵位制度、法の下での統治、中央集権化、統一的な税制など、国家運営を根本から作り替える内容でした。これにより、秦は効率的な戦争国家へと変わり、後の統一の基盤が整いました。
2.3. 六国統一
昭襄王の時代に秦の勢力は大きく伸び、嬴政の代で趙・韓・魏・楚・燕・斉を次々と攻略し、紀元前221年に統一を達成しました。
2.4. 終焉
統一からわずか15年後、二世皇帝の政治混乱と反乱の多発により秦は崩壊し、子嬰の代で項羽と劉邦の勢力に滅ぼされました。
3.始皇帝の苗字「嬴」の起源
3.1. 嬴氏の系統
秦王室の姓は「嬴(えい)」で、秦、趙、梁、徐、馬など複数の氏族に分かれていったとされます。近年の遺伝学研究では、これらの姓を持つ一部の系統に共通するY染色体ハプロタイプが確認され、古代系譜の伝承と符合すると指摘されています。
3.2. 「秦」と「China」
嬴政が定めた国号「秦(しん)」は、後に英語の「China」の語源になったと考えられています。