家系図

ヘンリー8世家系図を解説

チューダー朝一族
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編集者: 成海

イギリス王室の歴史で、ヘンリー8世ほど波乱に満ちた王はいません。彼は6人の妻を持ち、男子の世継ぎを強く望んだために、ローマ・カトリック教会と決別し、英国国教会を設立しました。結婚、離婚、処刑の物語は、単なるゴシップではなく、英国の政治や宗教、社会を大きく変えた事件でした。

この記事では、複雑なヘンリー8世の家系図を、祖先から子孫まで分かりやすく整理します。家族関係を知ることは、英国史の重要な転換点を理解することでもあります。

1. チューダー朝の始まり

ヘンリー8世の時代より前、イングランドは長い内乱で疲弊していました。チューダー朝の誕生は、混乱を収束させる象徴でした。

1-1. バラ戦争とは

「薔薇戦争」(1455年~1485年)は、ランカスター家(赤薔薇)とヨーク家(白薔薇)が王位を巡って争った約30年の内乱です。この対立は貴族社会を疲弊させ、新しい時代の到来を促しました。

1-2. チューダー朝の創始者ヘンリー7世

内乱を終結させたのが、ヘンリー8世の父、ヘンリー7世です。1485年のボズワースの戦いでリチャード3世を破り王位につきました。彼はヨーク家のエリザベスと結婚し、両家を統合。王朝の正統性と国の安定を確保しました。

ヘンリー7世は、赤薔薇と白薔薇を組み合わせた「チューダー・ローズ」を制定しました。これは両家の和解と新しい王朝の始まりを象徴しており、今日でも英国王室の象徴の一つです。

2.ヘンリー8世の家系図

ヘンリー8世は次男として生まれ、当初は王位を継ぐ予定ではありませんでした。長兄アーサーは王太子としてスペイン王女キャサリンと結婚しましたが、わずか20週後に急死。次男のヘンリーが王位継承者となり、この運命の転換が英国史を大きく動かすことになります。

ヘンリー8世の治世は、男子の世継ぎを確保することに強く支配されました。そのため6人の妻との劇的な物語が生まれました。

  • キャサリン・オブ・アラゴン
    最初の妻で兄アーサーの未亡人。メアリー1世を産むも男子は早世。離婚が認められず、英国国教会設立のきっかけに。

  • アン・ブーリン
    2番目の妻。エリザベス1世を出産。男子を産めなかったことから斬首される。

  • ジェーン・シーモア
    3番目の妻。待望の男子エドワード6世を産むが、出産後に亡くなる。ヘンリーが最も愛した妻。

  • アン・オブ・クレーヴズ
    4番目の妻。政略結婚だが印象が合わず離婚。英国で「王の妹」として厚遇される。

  • キャサリン・ハワード
    5番目の妻。若く美しいが不義が発覚し斬首される。

  • キャサリン・パー
    6番目で最後の妻。ヘンリーの死まで生き、王の娘たちを和解させるなど政治的にも重要な役割を果たす。

3. ヘンリー8世の子供たち

ヘンリー8世の子供たちは、それぞれ異なる性格と統治方針を持つ君主になりました。

  • エドワード6世:ジェーン・シーモアの息子。9歳で即位し病弱で早世。プロテスタント改革を推進。

  • メアリー1世:キャサリン・オブ・アラゴンの娘。カトリック復活を試み、多くのプロテスタントを処刑。

  • エリザベス1世:アン・ブーリンの娘。中道的な宗教政策で「黄金時代」を築く。生涯独身。

また、庶子ヘンリー・フィッツロイもいましたが、17歳で病死。世継ぎ問題はこれによりさらに複雑になりました。

6. チューダー朝の終焉とスチュアート朝

エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世には子がなく、チューダー朝直系は途絶えました。王位はヘンリー8世の姉マーガレットの子孫、スコットランド王ジェームズ6世に渡り、1603年にジェームズ1世として即位。ここにスチュアート朝が始まりました。

7. ヘンリー8世の家系図が示す英国史の転換点

ヘンリー8世の男子への執着は、国の運命を左右しました。6回の結婚は宗教改革を生み、3人の子供たちはそれぞれ異なる統治で国を揺さぶりました。

彼の家系図は、単なる家族の記録ではなく、個人の欲望が国家の形を作り、近代英国の基礎を築いた壮大なドラマを映しています。

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