家系図

藤原道長の家系図と藤原氏の歴史

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編集者: 成海

この記事では、藤原氏の起源、藤原道長の家族関係を分かりやすく解説します。

1.藤原氏の起源と権力への道

藤原氏の歴史は、中臣鎌足が「大化の改新」での功績によって天智天皇から「藤原」の姓を授かったことに始まります。鎌足は天皇を中心とする国家体制を築き上げた重要人物でした。

その子・藤原不比等には4人の息子が生まれ、北家・南家・式家・京家という四家が成立します。この中で最も政治力を高め、後世まで繁栄したのが北家です。

藤原氏が権力を確立した背景には、数十年にわたる継続的な政敵排除があります。承和の変や応天門の変を通じて他氏族を中央政界から遠ざけ、最終的には969年の「安和の変」で左大臣・源高明を失脚させ、政治の主導権を独占しました。ここから藤原氏の支配体制が強固なものとなりました。

2.藤原道長の家系図

2.1 道長の家族

道長の家族構成は以下の通りです。

父:藤原兼家

母:時姫

兄弟:道隆、道兼

姉妹:詮子、超子

妻:源倫子、源明子

藤原道長は父・兼家の五男として生まれ、当初は家督を継ぐ立場ではありませんでした。しかし兄たちの相次ぐ死により政治の中心へ進み、特に姉・詮子の支援によって地位を固めていきます。

2.2 「一家三后」の実現と道長の娘たち

道長は外戚政策を徹底し、太皇太后・皇太后・中宮という三つの后位をすべて自分の娘で占める「一家三后」を実現しました。

娘たちの状況は以下のとおりです。

嫁いだ天皇 生まれた子 特記事項
彰子 一条天皇 後一条天皇・後朱雀天皇 二代の天皇の母となり、文化サロンを形成
妍子 三条天皇 禎子内親王 父の道長と夫の不仲に悩む
威子 後一条天皇 皇子なし 「望月の歌」が詠まれた宴の主役
嬉子 後朱雀天皇 後冷泉天皇 出産直後に早世し、道長が深く悲しんだ

3.藤原氏の栄華と衰退

道長の権力の象徴とされる「望月の歌」には、権勢の誇示と解釈する説のほか、即興の戯れ、あるいは栄華の無常を暗示するなど複数の見解があります。

道長は関白には就任せず、左大臣として人事権を握り、内覧として政務の実権を保持しました。名誉より実務を重視した姿勢が特徴的です。

しかし道長の子・頼通の代になると、后となった娘に皇子が生まれず、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位します。ここから天皇自らが政治を主導する院政へと移り、摂関家の権力は次第に弱まっていきました。

4.藤原氏のその後

摂関政治の時代が終わった後も、藤原氏の権威が完全に失われたわけではありません。藤原北家は、近衛家、九條家、二條家、一條家、鷹司家という「五摂家(ごせっけ)」に分かれました。この五摂家は、摂政・関白の職を独占的に世襲する最高の家格として制度化され、何世紀にもわたり朝廷内で特別な地位を維持し続け、その遺産を後世に伝えました。

そして、その血脈は現代にまで脈々と続いています。最も象徴的な例が、昭和初期に三度にわたって内閣総理大臣を務めた近衛文麿です。彼は五摂家の筆頭である近衛家の当主であり、藤原道長の直系の子孫にあたります。

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