家系図

鎌倉北条家系図と歴史

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編集者: 成海

およそ150年にわたり、源氏将軍を陰から支え、ときには将軍を凌ぐほどの権勢を振るった鎌倉幕府の実力者・北条氏。近年では大河ドラマ『鎌倉殿の13人』によって草創期の姿が描かれ、改めて注目を集めています。

一方で、「小田原を拠点に関東を制した戦国時代の北条氏とは、どのような関係があるのか」という疑問を抱く人も少なくありません。

本記事では、鎌倉幕府を実質的に支配した北条氏の系図から権力構造、そして混同されがちな戦国北条氏との関係まで、歴史の流れに沿って分かりやすく解説していきます。

1.北条氏の出自と「三つ鱗」の家紋

鎌倉時代の北条氏は、伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)を本拠とした地方豪族でした。その出自については、第50代桓武天皇を祖とする平氏の一族とされる説が有力ですが、異説も多く、正確な起源はいまなお研究者の間で議論が続いています。

北条氏を象徴する家紋が「三つ鱗」です。この家紋にはよく知られた伝説があります。初代執権・北条時政が江の島に参籠した際、龍神が現れ、子孫繁栄を予言するとともに三枚の鱗を残して去ったというものです。この伝承にちなみ、北条氏は三つ鱗を家紋としたと伝えられています。

2.北条氏の家系図と歴代執権

北条氏は、二代執権・義時と、その弟・時房の系統を中心に、数多くの分家を生み出し、巨大な一族を形成しました。中核となったのは、義時の子孫にあたる嫡流の得宗家で、ここから代々の実力者が輩出されました。一方、得宗家から分かれた庶流は分流と呼ばれ、それぞれが幕府の要職を担っていきます。

以下は、その複雑な家系の一部です。

北条義時の系統

・得宗家:泰時、時頼、時宗などを含む本家。幕府の最高権力を掌握
・極楽寺流:義時の三男・重時を祖とする
― 赤橋流:極楽寺流の嫡流。最後の執権・守時を輩出
―常盤流
―塩田流
―普音寺流
―桜田流:重時の十男・ただ時を祖とする
・名越流:義時の子・友時を祖とし、得宗家と対立することが多かった
・政村流:義時の五男・政村を祖とする
・金沢流:義時の子・実泰を祖とし、金沢文庫の創設で知られる
・伊具流:義時の子・有時を祖とする

北条時房の系統(義時の弟)

・大仏流:時房系の嫡流
・佐介流:時房から分かれた分流

その他の主要分流

・宗方流:五代執権・時頼の子・宗政を祖とする
・阿蘇流:四代執権・経時の弟・時定を祖とする

鎌倉幕府の執権は初代・時政から16代・守時まで続きましたが、ここではご紹介します。

初代執権:北条時政

  • 人物概要:鎌倉北条氏の初代当主であり、初代執権。一族の権力の礎を築きました。「三つ鱗」の家紋伝説でも知られています。
  • 在位期間の主な出来事:源頼朝の死後、2代将軍・頼家を追放し、比企能員らライバルを次々と謀殺。北条氏の権力を確立しました。

2代執権:北条義時

  • 人物概要:2代執権であり、時政の子。北条氏の権力を不動のものにした中心人物です。彼の子孫から嫡流である「得宗家」や数多くの分家が生まれました。
  • 在位期間の主な出来事:承久の乱で後鳥羽上皇方に圧勝し、幕府の朝廷に対する優位を決定づけました。戦後、京都監視機関として六波羅探題を設置しました。

3代執権:北条泰時

  • 人物概要:3代執権で義時の子。執権政治を安定させ、公正な政治を目指しました。分家である金沢流の実質的な祖・金沢実時の烏帽子親を務めるなど、一族の育成にも力を注ぎました。
  • 在位期間の主な出来事:武家社会の基本法典である「御成敗式目」を制定しました。

4代執権:北条経時

  • 人物概要:3代執権・北条泰時の長男で、4代執権を務めました。若年で執権に就任し、父・泰時の路線を引き継ぎ、執権政治の安定維持に努めた人物です。
  • 在位期間の主な出来事:父の死後、評定衆を中心とする合議制を重視し、御成敗式目に基づく政治運営を継続しました。在職中に病を得て若くして死去しています。

5代執権:北条時頼

  • 人物概要:5代執権。彼の時代に、権力が執権職から得宗家当主個人へと移る「得宗専制」が始まりました。
  • 在位期間の主な出来事:『徒然草』には、彼が招いた北条信時と共に器に残った味噌を肴にする質素な生活を送っていた逸話が記されています。

6代執権:北条長時

  • 人物概要:極楽寺流出身の6代執権。幼少の得宗・時宗が成長するまでの中継ぎ役として執権を務めました。

7代執権:北条政村

  • 人物概要:政村流の祖として知られる7代執権。極楽寺流出身の北条長時に続いて執権に就任し、得宗家と有力御家人の調整役として政治を支えました。
  • 在位期間の主な出来事:この時期、得宗家当主である北条時宗が幼少であったため、執権として幕政の安定化に尽力しました。得宗専制へ移行する過渡期の執権と位置づけられます。

8代執権:北条時宗

  • 人物概要:8代執権であり、時頼の子。彼の治世は、日本史上未曽有の国難への対応に終始しました。
  • 在位期間の主な出来事:二度にわたる元(モンゴル帝国)の襲来(文永の役・弘安の役)に際し、断固とした態度でこれを退けました。

9代執権:北条貞時

  • 人物概要:9代執権。彼の時代には、得宗家の家臣である内管領・平頼綱の権力が非常に強大になりました。
  • 在位期間の主な出来事:平頼綱が有力御家人・安達泰盛を滅ぼした霜月騒動など、内紛が相次ぎました。

10代執権:北条師時

  • 人物概要:名越流出身の10代執権。得宗家以外の出身者が執権に就いた例として知られていますが、実権は得宗家および内管領に握られていました。
  • 在位期間の主な出来事:内管領・平頼綱が強い影響力を持ち、執権職の形骸化が一層進行しました。幕府内部では得宗家と有力御家人の緊張関係が続いていました。

11代執権:北条宗宣

  • 人物概要:「得宗専制体制」を象徴する執権の一人。大仏流出身の彼が執権の座にあった時、実権は内管領の長崎円喜が完全に掌握していました。

12代執権:北条煕時

  • 人物概要:政村流出身の12代執権。彼もまた、実権のない名目上の執権でした。

13代執権:北条基時

  • 人物概要:普音寺流出身の13代執権。実権は長崎円喜の子・高資が握っており、執権は形骸化していました。

14代執権・得宗:北条高時

  • 人物概要:14代執権であると同時に、北条氏の嫡流である得宗家の最後の当主。
  • 在位期間の主な出来事:政治の実権は内管領・長崎円喜やその子・高資に握られ、幕府は急速に弱体化。後醍醐天皇の倒幕運動を抑えきれず、鎌倉幕府滅亡を招きました。最後は菩提寺である東勝寺にて一族郎党と共に自害しました。

15代執権:北条貞顕

  • 人物概要:金沢流出身の15代執権。彼の執権在位期間は、鎌倉幕府の歴史上、最も短い約10日間でした。
  • 在位期間の主な出来事:幕府滅亡の混乱の中で執権となり、鎌倉陥落時に討死しました。

16代執権:北条守時

  • 人物概要:赤橋流出身で、鎌倉幕府最後の執権。妹の赤橋登子は、後に室町幕府を創設する足利尊氏の正室でした。
  • 在位期間の主な出来事:新田義貞の鎌倉攻めに際し、裏切り者とされた義弟・尊氏の汚名をそそぐかのように奮戦しましたが、最後は自刃して果てました。

3.鎌倉幕府の「執権」と「得宗」

北条氏による幕府支配の中核を成したのが、「執権」と「得宗」という二つの存在でした。

執権は、将軍を補佐する役職であり、実質的には幕府の最高権力者でした。この職は初代・時政以来、北条氏が代々世襲します。一方、得宗とは北条氏嫡流、すなわち本家の当主を指す呼称です。名称の由来は、二代執権・義時の法号にちなむとされています。

当初は執権が政治を主導する体制でしたが、五代執権・北条時頼の時代に大きな転換点を迎えます。時頼は病により出家した後も、幼い嫡男・時宗の後見として実権を握り続けました。

この頃から、政治の中心は形式上の執権ではなく、得宗家当主へと移行し、「得宗専制体制」と呼ばれる支配構造が確立します。執権職は次第に名目的な存在となり、実際の権力は得宗と、その直属の家臣団である御内人が掌握するようになりました。

4.鎌倉北条氏と戦国北条氏

長年多くの人を悩ませてきた「二つの北条氏」の問題について、ここで明確にしておきましょう。結論から言えば、鎌倉時代に執権を務めた北条氏と、戦国時代に小田原を拠点とした北条氏は、血縁関係のない別系統の一族です。

戦国期の北条氏は区別のため「後北条氏」とも呼ばれます。その祖は伊勢宗瑞、後に北条早雲として知られる人物です。ただし、早雲自身は生前に北条姓を名乗っていません。北条という苗字を公式に用い始めたのは、その子・氏綱の代になってからです。

氏綱が北条姓を名乗った最大の理由は、関東支配の正当性を高めるためでした。伊勢氏はもともと関東とは縁の薄い存在であり、そこで氏綱は、かつて関東を支配した名門・鎌倉北条氏の名跡を継ぐことで、自らの政権に権威を与えたのです。このように断絶した名家の名を継承する手法は、戦国時代には決して珍しいものではありませんでした。

後北条氏は、姓だけでなく統治制度においても鎌倉北条氏を意識しました。評定衆といった役職名を復活させるなど、幕府的な統治体制を再現しようとした点も特徴的です。さらに、氏綱が鎌倉北条氏の血を引くとされる女性を正室に迎えたという説もあり、名実ともに「北条」を名乗る正当性を強めようとした姿勢がうかがえます。

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