家系図

ロマノフ王朝家系図

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編集者: 成海

ロマノフ王朝は、ロシア近代国家の形成を語るうえで欠かせない王朝です。1613年にミハイル・ロマノフが即位してから、1917年にニコライ2世が退位するまで、304年にわたってロシアを統治しました。皇帝の数は合計18名です。

本記事では、系図を手がかりに、ロマノフ家の皇帝たちを紹介します。

1.ロマノフ家の系図

初代皇帝ミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代に、一族はイヴァン4世の皇后の親族となりました。さらに、ミハイルの祖母はリューリク家の分家の出身であったため、遠縁ではありますが旧王朝の血も受け継いでいました。

その後、リューリク家が断絶し、ロシアが混乱に陥った「動乱時代」を経て、1613年に有力貴族たちの推戴によってミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれ、ロマノフ朝が始まります。

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比較的知名度の高い皇帝としては、まずピョートル1世が挙げられます。いわゆる「ピョートル大帝」として知られ、西欧化改革を進めるとともに、ロシア帝国の基礎を築いた人物です。首都をサンクトペテルブルクへ移したことでも有名です。

次に、エカチェリーナ2世も非常に知名度の高い皇帝です。一般には「エカチェリーナ大帝」として知られ、専制君主として統治を行い、ポーランド分割やクリミア併合などによって領土を大きく拡大しました。ロマノフ朝の最盛期を象徴する存在といえます。

また、アレクサンドル1世も広く知られています。ナポレオン戦争でロシアを勝利へ導き、戦後のウィーン体制の形成でも重要な役割を果たしました。そのため、ロシア史だけでなくヨーロッパ史の中でも存在感の大きい皇帝です。

アレクサンドル2世は、「農奴解放令」を出した皇帝として特に有名です。ロシアの近代化を進めた改革者として評価される一方、最終的には暗殺されました。

そして、ロマノフ朝最後の皇帝であるニコライ2世も高い知名度を持ちます。日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命という大きな歴史の転換点に直面し、退位後には家族とともに処刑されました。その悲劇的な最期も含めて、特に広く知られている皇帝の一人です。

皇帝

期間

前代との関係

主な出来事

ミハイル・ロマノフ

1613-1645

王朝の創始者

「動乱時代」の後、有力貴族たちに推戴されてツァーリとなり、

ロマノフ朝を開きました。

アレクセイ

1645-1676

ミハイルの息子

帝権の確立を進め、ニーコン総主教によるロシア正教会改革が行われました。その結果、古儀式派が形成されます。

フョードル3世

1676-1682

アレクセイの息子

在位は短期間にとどまりました。

イヴァン5世

1682-1696

フョードル3世の弟

ピョートル1世と共同で統治しました。

ピョートル1世

1682-1725

フョードル3世の弟

ロシア帝国を築き、西欧化改革を進めました。

北方戦争に勝利し、首都をサンクトペテルブルクへ移しました。

エカチェリーナ1世

1725-1727

ピョートル1世の妻

ピョートル1世の死後、先例に基づいて即位しました。

ピョートル2世

1727-1730

ピョートル1世の孫

この代でロマノフ家の男系嫡流が断絶しました。

アンナ

1730-1740

イヴァン5世の娘

ピョートル1世の姪にあたります。

イヴァン6世

1740-1741

アンナの姪の息子

生後まもなく即位しましたが、のちにクーデターで廃位されました。

エリザヴェータ

1741-1762

ピョートル1世の娘

モスクワ大学の創設や、七年戦争への関与で知られます。

ピョートル3世

1762

エリザヴェータの甥

ホルシュタイン=ゴットルプ家の出身で、在位6か月で皇后エカチェリーナに廃位されました。

エカチェリーナ2世

1762-1796

ピョートル3世の妻

啓蒙専制君主として知られ、ポーランド分割やクリミア併合などによって領土を拡大しました。また、エルミタージュ美術館の基礎も築きました。

パーヴェル1世

1796-1801

エカチェリーナ2世の息子

貴族の反発を招き、のちに暗殺されました。

アレクサンドル1世

1801-1825

パーヴェル1世の息子

ナポレオン戦争で勝利し、ウィーン体制の形成を主導しました。

ニコライ1世

1825-1855

アレクサンドル1世の弟

デカブリストの乱を鎮圧し、その治世にクリミア戦争が始まりました。

アレクサンドル2世

1855-1881

ニコライ1世の息子

1861年に農奴解放令を出し、露土戦争でも勝利を収めましたが、のちに暗殺されました。

アレクサンドル3世

1881-1894

アレクサンドル2世の息子

保守的な統治を行い、不凍港の確保と南下政策を継続しました。

ニコライ2世

1894-1917

アレクサンドル3世の息子

ロマノフ朝最後の皇帝です。日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命を経て退位し、1918年に家族とともに処刑されました。

なお、王朝の血統という点では、1762年にエリザヴェータ女帝が崩御した時点で、ロマノフ家の男系は断絶しています。その後は、女帝の甥であるピョートル3世から始まる「ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家」が皇位を継承しました。ただし、王朝としての正統性と継続性を示すため、公称としてはその後も「ロマノフ」の名が使われ続けました。

2.ロマノフ家に関するFAQs

1.ロマノフ家は、ほかのヨーロッパ王室とどのような関係にあったのでしょうか。

ドイツ

エカチェリーナ2世自身、もともとはプロイセンのシュテッティン生まれで、本名はゾフィー・アウグステ・フリーデリケといい、ドイツ系のアンハルト家の出身でした。夫のピョートル3世はホルシュタイン=ゴットルプ公であり、ここから王朝の系譜は「ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家」へと移っていきます。その後のパーヴェル1世らの皇帝も、ドイツ諸侯家の公女を妃に迎えることが多くありました。

スウェーデン

エカチェリーナ2世の叔父アドルフ・フレドリクは、スウェーデン王位の継承者でした。また、彼女の従兄にあたるグスタフ3世とカール13世は、のちにいずれもスウェーデン国王となっています。さらに、その孫にあたるアレクサンドル1世の時代には、王女アレクサンドラをスウェーデン王グスタフ4世アドルフに嫁がせる構想もありました。

イギリス

ロマノフ家は、イギリス王室とも直接の親族関係を持っていました。最後のロシア皇帝ニコライ2世の母マリア・フョードロヴナは、デンマーク王女ダウマーの名で生まれた人物で、イギリス王太后アレクサンドラの妹です。1918年の革命期には、イギリス王太后アレクサンドラの働きかけにより、イギリス海軍の戦艦マールバラがクリミアにいたロマノフ家の皇族を救出したとされています。

デンマークとポーランド

エカチェリーナ2世は、ポーランド最後の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキと、デンマーク王クリスチャン1世を共通の祖先としていました。

このように、ロマノフ家の皇室は、ピョートル3世以降、実質的にはドイツ系とロシア系の血統が結びついた存在となっていました。ヨーロッパ王室の中でもきわめて高い家格を持ち、こうした血縁関係は当時のヨーロッパ外交において重要な意味を持っていました。一方で、アジア諸国との関係は、主として政治や経済をめぐる駆け引きの側面が中心でした。

2.なぜ「フョードル3世」はいても、「フョードル1世」「フョードル2世」はいないのでしょうか。

「フョードル3世」がいても「1世」「2世」がロマノフ家にいない理由は、ロシア君主の代数番号が王朝ごとではなく、「全ルーシのツァーリ」という君主号に基づいて通し番号で付けられているためです。つまり、ロマノフ家の中だけで数えているわけではありません。

フョードル1世:リューリク朝最後のツァーリであり、「雷帝」として知られるイヴァン4世の子です。

フョードル2世:動乱時代に短期間だけ在位したツァーリで、ボリス・ゴドゥノフの子にあたります。ゴドゥノフ家の出身です。

フョードル3世:ロマノフ朝の君主で、アレクセイ・ミハイロヴィチの子です。ただし、彼より前にすでに「フョードル」という名のロシア君主が二人いたため、「3世」となります。

このような例はロマノフ朝では珍しくありません。たとえば、イヴァン5世やイヴァン6世も同じ考え方です。彼らはロマノフ家の一員ですが、その番号はリューリク朝時代のイヴァン1世からイヴァン4世までの系譜を引き継いでいます。

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