1.源家の歴史
源氏は、清和天皇を祖とする「清和源氏」の流れをくむ武家の名門です。その中でも、河内国(現在の大阪府東部)を本拠とした一族は「河内源氏」と呼ばれ、東国武士団との強い主従関係を築きました。
頼信・頼義・義家の三代にわたり勢力を拡大し、特に義家は武勇に優れた武将として名声を高め、源氏を武門の棟梁として確立しました。
しかし、義家の死後、源氏の勢力は一時衰えます。この状況を立て直し、再び中央政界の表舞台に押し上げた人物が、河内源氏五代棟梁・源為義の長男である源義朝でした。義朝は、後に鎌倉幕府を開く源頼朝や、源義経の父として知られています。
2.源義朝家族(父母・配偶者・兄弟・子女)
源義朝の家族関係は、源氏内部の対立と、政治的な婚姻によって形作られました。
父母・兄弟
義朝の父は源為義です。ただし、為義の出自については当時から議論があり、源氏嫡流の正当性が必ずしも安定していたとは言えませんでした。
こうした不安定さは、保元の乱(1156年)で表面化します。義朝は後白河天皇方として平清盛とともに戦い、父・為義や弟たちは崇徳上皇方につきました。戦後、義朝は父や弟たちの助命を願いますが認められず、最終的には処刑を受け入れることになります。
また、東国では弟・源義賢と争い、長男・義平にこれを討たせています。
配偶者
正室は由良御前で、熱田神宮の祭祀を担う藤原季範の娘です。この婚姻により、義朝は院政期の貴族社会との結びつきを強めました。
側室として知られる常盤御前は、義朝の死後、子どもたちを守るため貴族・一条長成と関係を結び、義経らの命をつなぐ重要な役割を果たしました。
子女
義朝の子どもたちは、それぞれ異なる運命をたどります。
長男・源義平は平治の乱で敗れて処刑されました。三男・源頼朝は伊豆へ流されますが、後に挙兵し鎌倉幕府を開きます。
常盤御前の子である源義経は、源平合戦で平家を滅ぼす立役者となる一方、兄・頼朝と対立し、奥州で自害しました。
そのほか、範頼、全成、義円など、多くの子が源氏再興の過程に関わっています。
3.源家の歴史的地位
日本の中世政治において、「源氏の嫡流」であることは大きな意味を持ちました。征夷大将軍という官職は、実質的に源氏が担うものと考えられるようになり、源氏の血筋は政治的正当性の象徴となります。
その背景には、武門の象徴とされた源義家の存在があります。義朝は、その直系であることを武器に、荒れがちな武士社会をまとめ上げました。
この源氏の権威は、後の時代にも利用されます。徳川家康は、自らを新田源氏の末裔と位置づけ、源氏の名を政治的な正当性として用いました。これは、源氏という家名が単なる血縁を超え、政治制度の一部として機能していたことを示しています。
4.源家の後裔
源頼朝の直系は、三代将軍・実朝の死と、その姉にあたる竹御所の死によって断絶しました。この出来事は当時、大きな衝撃をもって受け止められました。

しかし、源氏の血筋や権威そのものは、他の氏族へと受け継がれます。義朝の叔父・義国の系統からは足利氏が生まれ、室町幕府を開きました。また、新羅三郎義光の流れからは武田氏が出て、戦国時代に大きな勢力を築きます。
さらに、義朝の正室の実家である熱田大宮司家は、祭祀を通じて源氏の権威を支え続け、近世・近代まで存続しました。
このように、源義朝がつないだ源氏の血脈と名声は、形を変えながら日本史の中で生き続けています。